KAZの転職活動期間のだいたいのまとめ

ついにアメリカでのKAZの就職先が決定しました!これで2001年6月にK社を退職してからおよそ5年半にわたる転職活動に終止符を打つことになります。

営業マンから技術マン(エンジニア)への転身を決意してから最低限の力をつけるために学校に通い、縁あって派遣エンジニアとして3つの会社で技術者としての経験を積ませてもらいました。そうこうしているうちにKAOの都合で渡米のチャンスがあり日本を出ることを決意しました。技術と英語の二重のハードルを背負ってしまい、当初の予定を大幅に上回る期間を転職活動に充てることとなりました。

この5年半の期間のうち3年間は派遣エンジニアとして収入を得ていましたが、残る2年半はエンジニアリングや英語のための学校に通う収入のない期間を送りました。こんなふうに仕事をしないで学びたいものを学べたことは最高に贅沢なことと思っています。収入が数年なくても生活していけるだけの金銭的な蓄えをしておいたことは自分で勝ち取ったことともとらえていますが、それもこれもKAOの理解と支えと応援があったからこそです。Thanks to My Wife です!

会社の名前はここではD社ということにしておきます。アメリカにある日本の企業です。大阪に本社のある商社の小さな規模の会社です。規模はほんとうに小さいですよ。大きな会社も小さな会社もそれぞれの魅力があるでしょうが、KAZは小さな組織で価値ある存在になろうとすることを選択しました。技術マンとしては未熟なKAZにチャンスをくれたD社にはほんとうに感謝しています。

どこかの正社員としての地位を得ることを最終的なゴールと決めていた転職活動はこれにて終了。当初は外国でそれを成そうとは考えてもいませんでしたけど。自分なりの大きな決断をできたこと、自分で立てた目標を達成できたことに対してほんのちょっとの間だけ自分を誉めてあげたいと思います。アメリカ滞在2年目の目標「アメリカで社会人になる」を達成できました。そしてKAZのキャリアの次のステージのスタートです。よりよい将来を迎えるための人生の修行はまだまだ続きます。(すぐに使い物にならないと判断されてクビになるかもしれませんしね)

以下、その5年半の大まかなまとめ。

To Pagetop

K社を出ること

2001年6月、KAZはそれまでおよそ7年間務めたK社を退社しました。理由はひとつではないのですが、大きな理由のひとつは将来に対する漠然とした不安があったことです。

会社を超えて通用するなんらかの実力を付ける必要があるような気がしていました。いつかもし合併を繰り返して巨大になった会社から「この部署は要らなくなったので解散です。来週から出社しなくていいですよ」と言われたときに途方に暮れないようにしたかったのです。まだ若いといわれる年齢ならまだしもそうでない年齢になってこれを言われたらきっとあわてふためくだけでなく家族にまで迷惑をかけることになったでしょう。そうは直接言われなくても「いつかそんな時がくるんじゃないか」と思いながら会社にしがみつくような心境になるのを避けたかったのです。もちろん「出社しないでいいですよ」とは言われない力を付けるという手段がありますけど、激変を続ける通信業界では会社の合併や分離を数知れぬほど繰り返していて1年後に自分がどの会社のどの部署に所属しているかを確信することは難しいのです。

他の理由としては、いっしょに仕事をしたエンジニアへのあこがれと同時に反面、顧客対応のまずさなどを見ているうちに両方自分でできたらなあという思いがあったり、高い目標が続く営業へのモチベーションの低下が他のメンバーに迷惑をかけることに対する自己嫌悪があったり、住むところは自分で決めたかったり(いつ転勤があるかわからないため)といくつかはありますけど。

退社の理由と心境をがんばって文字にしようとしていますけど、ここまで書いただけでは全然うまく言い表せてる気がしないのも正直なところ。もうひとつ付け加えるとしたら、ある日ある時ある人から「あなたに夢はありますか?あなたの夢は何ですか?」と聞かれたことです。そんな問いに明確に答えられなかったこと、これといった大きな目標や計画がないことを人(男?)としてとても情けなく感じたことがあります。この問い自体は直接転職とは関係のないことですけど、それまでの殻を破ろうとする沸き立つエネルギーをもらったような気がします。

KAZはもともと職をころころと変えたがる人間ではありません。むしろ、ひとつの道を進もうとする日本人的な気質を強く持っています。実は今回の一般的には転職と呼ばれる活動もKAZとしては職を変えたというつもりはあまりなくて、電話から通信、IT と呼ばれるようになった世界に携わっていることには変わりはないと思っています。電話の営業からそのうちにデータ通信、インターネットと取り扱い品目が増えるにつれ必要とされる知識やスキルも変わってきている中でそれに合わせて変化していっているような感じもします。K社の中で知った人の中でも「自分はこのままでいいのか」と思いつつ、それぞれの家庭や環境の中でなかなか思い切った行動ができない人がいることも知っています。そういった人と比べると自分はラッキーだったなあと思います。

K社を出たあともKAZはK社のファンですよ。通信業界、ひいては日本の経済においても存在価値の高い会社だと思います。通信業界(かつては電話業界ともいったかな)に競争をもたらして料金を下げたことで社会貢献ができている、携帯電話は今やなくてはならず個性的な端末やサービスを打ち出して付加価値を創出している、それだけでも社会的存在や役割は大きいですよね。通信インフラを自前で持っているのでたとえ電話収入がなくなったとして ISP などの業者に貸している回線料はなくならないから絶対につぶれない会社のうちのひとつです。でも、KAZがK社のファンであるいちばんの理由はそういったことより、やっぱり知った人が多くいるからかな。

ほんとうはこのへんの心境をK社の退社時に書きたかったんですけどなかなか言葉にまとまらずそのままとなっていました。

To Pagetop

IT お勉強時代

技術者としてやっていこうとするのに最低限の知識を身に付けるため、8ヶ月間ほど新宿のその手の学校に通いました。そこで MCP とか CCNP などの資格を取ることを通じて IT の世界の基礎を学びました。これらの資格は、初歩的なもので持っていてもちっとも自慢にはなりません。仮に就職の面接でこれを取得したことを大声でうったえたとしたら、逆にマイナス効果となるでしょう。資格取得は自分なりの目標を作るための手段と割り切ってやっていました。資格なんかなくても力があればいいんですけどね、特に学び始めは合否のはっきりした目標の方が適切と思ってやってました。プログラミングがどんなものか知るためにちょっと Java もやりました。この間は髭を伸ばして遊んでみたりもしました。

To Pagetop

派遣エンジニア時代

派遣エンジニアというもの

派遣エンジニアというものはあまり一般的には知られていないかもしれませんが、業界ではかなり大きな存在になってきています。正社員としてではなく人材を供給する会社に所属して、その人材を必要とする派遣先で働くというものです。短期間のプロジェクト的な仕事もあれば長期に渡るものもあります。クライアント側からすれば正社員を雇う手間や教育を省けるメリットがあります。プロジェクトが終われば解雇をすることなく契約を終えることもできます。実力さえあれば派遣先の正社員をしのぐ収入を得ることも珍しくありません。人によってはこれを生涯の職業として選択する者もあります。KAZもかつては派遣と聞くと女性のためのものという勝手な思い込みがありましたが今ではことエンジニアに関しては認識がまったく変わっています。

派遣エンジニアとしての経験

KAZはこの派遣エンジニアとして3年間に渡り3社で経験を積ませてもらいました。それぞれ日本では知らない人のいない名の通った通信に関わる会社です。大きな経験となったのはそこで3社とも派遣会社からはリーダーの立場を与えてもらったこと。少ない人数ながらも主にKAZより若い人間を取りまとめる役を与えてもらいました。若いのに立派なもんだと感心させられる者や技術的知識はあっても社会人としての振る舞いが未熟な者、将来的野望のある者やまたその反対、キャリアに不安を持つ物、また根拠のない妙な自信に満ち溢れた者など様々なタイプの人間がいて、いろんな意味で刺激になりました。自分の決断や行動や言葉が他の人間に大きく影響を与える立場を与えてもらったことでいろんなことを考えることになりました。その責任ある立場として自分では最善を尽くしたつもりでしたが、どうでしょう。数年たった今でもリーダーとしてのあの時の行動はあれでよかったんだろうかと省みることがしばしばあります。

あの行動は

あれでよかったのかなあと思い返すことのひとつに当時の派遣会社の上司というか先輩に対して腹を立ててクライアントを含めた大勢の前で怒鳴ったことがあります。詳細は省きますが、KAZが上司や先輩に向かって「だったらお前がやれ、早くしろ、おい!」と怒鳴ったのは後にも先にもそれっきりです。クライアントの前で大声を発したのはよくないことです。すぐにいくつかの筋にきちんとお詫びにいきました。『なのはな便り』の読者の方はKAZが攻撃的な性格でないことを知ってくださっていると思いますが、それにしてもその人、ほんとに、よくもまあこの温厚なKAZをあそこまで腹を立たせることができるもんだとある意味感心します。突発的でなく継続的にマグマを熱せられたことによる結果です。あの行動はよくないことではありますけど、仮に今後まったく同じことが起こった場合に繰り返さない自信は今のところありません。しかし、KAZが自分でもいいところだと思っているのはこんなことがあっても数時間後にはその人に向かって「じゃ、一杯やっていきますか」と言うところかな(「じゃ」って何でしょうね(^^))。

よく呑んだなあ

仕事とは関係ないですけど、この期間はよく呑んだなあと思い返します。所属先の派遣会社、いっしょにやっているエンジニア仲間たち、派遣先の会社の方々とたくさんの人と接する機会をもつことができましたので。いっしょに働いた仲間の中にはKAZのことをアニキと呼んで慕ってくれる者もいて、終電をなくして朝まで呑んで過ごしたことも何度か。『なのはな便り』は「職場の人と呑んできました」ということは基本的にはニュースにしない方針でやっているので多くは記憶にのみ残っていることですが、楽しいことがたくさんありましたよ。修行期間とはいえ大いに笑った楽しい期間でもありました。

To Pagetop

渡米

渡米のきっかけはKAOの(会社の)都合です。入社当時から海外での勤務もしくは英語を使う部署への配属を希望していたのですがなかなか実現せぬままでした。実際に赴任することになるおよそ1年前の2004年の春から夏にかけて会社側からアメリカへの赴任の打診がありました。KAOにとってはもともと希望していたことですが、KAZの方は相当、かなり、だいぶ考えました。深く考えたり、軽く考えてみたり、たまに考えるのをやめてみたり、の迷いに迷った期間を経たのち夏に "100% AGREE" と答えました。赴任に対して No と返答してもKAOは会社を辞めることになるわけではなかったのですが、渡米については、きっかけはKAO、決断はKAZ、といったところでしょうか。

チャンス

アメリカへ渡ることはチャンスであることは直感的に感じていました。それも行き先は Silicon Valley, KAZが目指すところの世界的中心地です。これが違う土地だったら別の選択をしていたかもしれませんが、とにかくこの機会を逃したらあとで後悔しそうな気がしてなりませんでした。言葉の通じぬ国で職を得て生活していけるかどうか、大きなリスクもありますがここはひとつ冒険、チャンスと感じた心境をバネにチャレンジしてみようと決意しました。34歳のKAZの大きな大きな決断でした。

数年でなく

KAOの赴任予定期間は「長期間」というものでした。仮にこれが 2, 3年とか 4, 5年という短期(KAZには短期に感じます)の予定だったとしたらKAZは渡米の同意をしていなかったろうと思います。高校生や大学生ならまだしもKAZの年齢ではちょっと新鮮な環境を味わってくるというだけの目的では職業的なブランクを作るリスクに勝てません。腰を据えて長期的に滞在できる見込みがあるということでの決断でした。とはいえ会社の予定はあくまで予定、いつ事情が変わるかわかりません。長くアメリカにいようと思えばそれなりの準備をしておかないといけません。

長期滞在には法の壁

長くアメリカに滞在しようとはしていますが、これには個人の意志ではどうにもならないアメリカ合衆国の法の壁があります。移民の国アメリカも現在は移民に対するかつての寛大さはなくなってきていて、むしろ自分達の職を奪われることにもつながる国外からの移民に対してかなり厳しい制限を設けています。外国人の滞在には VISA が必要ですが、これは勉学や労働をある期間だけ許すというもの。数年おきの更新で雇用主の支援も必要、この人間が必要なのだと言ってもらわないといけないのです。グリーンカードさえ取得してしまえば永住の権利が得られるのですが、これは宝くじに当たるようなもの、競争も激しくなかなか手にすることはできません。VISA で滞在している間はどうしても雇用主の意向に左右されてしまいます。

気になるのは

気になるのはやはり日本に残すことになるそれぞれの家族のこと。だんだんと年老いていこうとする両親を残したままでいいものかとも思いましたが、自分たちが後悔のない人生を送って「おかげさまで幸せです」と言えるのもひとつの大きな親孝行と考えることにしています。勝手な考えかもしれませんが、自分達が将来もつ子供にもそんなふうに後悔のないようにしてもらいたいと思っています。もうひとつ気になるのは、その将来の子供のこと。違う文化で育っていこうとする子供に対して親としてどのように接してやればいいものか、子供をもつ前から大いに考えさせられます。ま、このへんは追々考えていきます。他には実際によくよく考えてみると大きく気になることはなかったですね、仕事は正社員としての立場ではなかったし、子供はいないし、金銭的にはぎりぎりではなかったし。追い風は吹いていたと思います。

両親へ: おかげさまで幸せです!

To Pagetop

英語

KAOについてはかつて Canada に住んでいたことや Arizona の高校を卒業していることでアメリカで生活かつ仕事をする上で問題ないレベルですが、KAZの方はというと…

かつては優等生

KAZもかつてローティーンの頃は日本という国が好きではないと錯覚し、海外へ脱出することを秘かにたくらむ少年でした。そんなエネルギーで英語だけは一生懸命勉強してました。その甲斐あって中学生の頃は受けたあらゆる英語のテストのうち半分は100点満点、最低点は91点、千葉県の公立高校入試でも目標としていた100点をゲット、高校入学直後の模試では満点が取れずにがっかりしていたらそれでも学年 No.1 の得点で全国だか千葉県だかで偏差値80越えを出しました。次に学年 No.5 を取った頃まではよかったのですが「敵がいない」と自惚れ出した頃から成績は落ち始め、その後は見るも無残な成績になりました。しかし、再び予備校時代には校内規模ですけど偏差値80越えを出します。偏差値80って英語でなくても取ったことのある人は少ないんじゃないですか?満点を取っても普通は出ません、まわりの点数がよほど低くないと。以上、KAZのちょっとした自慢、過去の栄光ってやつでした。完全に過去のものにするためにここでちょっと自慢させてもらいました。(^^)

今は幼稚園生

いくらテストの点数がよくてもその国の言葉で生活を送るのにはほぼ無力であることはもともとわかっていました。高校以降は海外へ出て暮らす願望も薄らいでしまったので勉強の意欲もなくなり、社会人となってからはその平均レベルもしくはそれ以下の能力しかなくなってしまいました。アメリカへ渡ってから少々勉強もしていますけど、なかなか思うように伸びていません。今のKAZの英語はアメリカの幼稚園生くらいの表現力しかないのではないでしょうか?いやいや、むしろ外国人として手加減をしないで話してくる子供とはやり取りが難しいかもしれません。10年かけてアメリカの中学生レベルに達することができればいいなと思ってます。数年の滞在で外国語を身に付けて帰ってくる留学生たちは立派だと思いますよ。KAZもかつてはそこで数年暮していればその言葉を修得できるものと思っていましたがその認識は変わりました。ボケ〜ッとしていては何年たっても話せるようにはなりません。KAZは native の中に身を置く環境がなかった分、英語修得には不利だったかもしれませんが、ペラペラ話せるようになって帰ってきた留学生たちはかなりの努力をしているのは明らか。KAOもかつてはそのひとり、立派だと思います。

To Pagetop

今後について

アメリカで職を得たといっても永住できるわけではありません。数年、場合によっては10年以上をかけて永住権(グリーンカード)の取得を目指そうとしています。とはいっても、10年後のことはよくわかりません。日本に帰りたくなっているかもしれませんしね。

* その後、2009年10月に永住権を取得しました。

To Pagetop

あとがき

KAOが昨日出張で日本へ出かけてしまったひとりの日曜日、ヒマにまかせてひとりで今の心境をヘラヘラと書いてみました。長く書いちゃいましたけど最後まで読んでくださってありがとうございます。果たしてうまく自分の心境を言い表せているのかどうかよくわかりませんが…。ま、とにかく明日から新しい職場での仕事が始まるのでそちらに全力を傾けなければなりません。また、思い起こすことがあったらそのうちに書き足します。

To Pagetop